統合失調感情障害患者の徒然日誌

毒にも薬にもならぬ文字を書き捨てる。

昔から無駄なことが好きだった。

子供の頃、特に幼稚園にいた頃のもっぱらの遊びといえば、意味なく走り回るか、ひたすら泥団子を作っていた。

そこに一切の意味を込めてはいなかったし、普段から考え事をしているのだから、遊ぶときはせいぜい意味のない事がしたかった。

目一杯走り回るか、集中して泥団子を作った後は、いい感じに体も疲弊していて、そのあとの考え事がとても捗った。


そんな無駄なこと好きが高まり過ぎて、僕は2006年ごろからネットに駄文をアップすることにハマった。

そう、僕の文章は電子の泥団子だ。

今でこそ、多少の文章技術は身に付いたけれど、つい最近初期の文章を読み返してみたらまあそれはクソみたいな文章で、よくこんなもんを書いてきたなって思う。

でもそれも積み重なって、12年くらい経ってしまった。

今でも意味のない文章を書き連ねることが好きかというと、最近の僕はそれを躊躇っている。

いい加減何かを成さないといけないのかもしれないと、そういう強迫観念に襲われているのだ。

今もキーボードをたたく指が震えていて、この文章自体も何度目かの書き直しだ。

何がそんなに怖いのか、それの洗い出しをしながら、探りつつ文章を書いている。

かつては、自分が納得する上手い文章回しを目指して書き綴っていた。

ただただ、自分の納得だけを追い求めていたのだ。

けれど、僕の中に長年蓄積されたフラストレーションは限界にまで膨れ上がっている。

どんなに上手な文章回しが浮かんでも、それを書き連ねたところで。

僕の中の疲労や、後悔や、悲しみ、怒り、疑問、諦観。

そういったネガティブなものが鎮まりそうにないのだ。

ポジティブなものも鎮まりそうにないl。

話を少しそらそう。

僕は最近、何人かの友人達とどういう訳か文通を行っている。

その中の二人に、僕は良い感じの(自分ではそう思っている)言い回しを書いた。

「命には善き使い道があって、自分のそれを探すのが人生なのかもしれないね。」

こんな感じの事を書き連ねた。

蓋を開ければなんてことは無い。

僕は友人たちに「善き命の使い道を探しなさい。」と言っておきながら、自分の命の善き使い道すら知らない。

そういった先の見えない焦りが、僕の無駄好きを全力で否定して来るのだろう。

「まだ何か、もっと上位の最善があるのかもしれない。焦れ、すぐに見つけなければあっという間に死んでしまう。そんなことをしている場合か?」と。

話をまた変えよう。

ここ10ヶ月くらいの間(厳密に言うと父の末期がんが判明した辺りから)、

政宗さんは本当に頑張ってるよ。他の人だったら出来ないレベルの最善を尽くしている。」

言葉選びは違うけれど、こういうニュアンスの言葉を僕にかけてくれた人たちがいた。

そうだ。

からしたら、僕は十分最善を尽くしている。

そしてそれは今後も変わらない。

ここまで書いて、ようやく僕は何かをつかみ始めている。

多分、この焦りは戦地帰りの帰還兵のそれに似ている。

恐らくこれが、僕自身に自らかけた呪いでもあり、祝福なのかもしれない。

強く生きるためには、こうするしかなかったのだろう。

それは仕方ない。

だからと言って、どうすればいいんだろうか。

この胸の内に溜まったフラストレーションの行先は、破滅願望だ。

それを抑え込むためには、強く在らねばならない。

だけど、強く在るだけ焦りが生じる。

これは無限に続くイタチごっこの様相を呈してきた。

もしかしたら、自分の弱さを認める時が来たのかもしれない。

あるいは自分の醜さというべきか。

はぁ。

そんなことを考えつつ、今日も眠る。

徒然近況報告

というわけで2~3週間前に入院騒ぎがあってからしばらく経ったわけです。

結局、様々な事情が込み入って任意入院はキャンセルしました。

それにあたり、医師の指導のもと、常用薬を頓服転用して用量を守りつつ、今までの倍以上をガンガン盛っています。

実を言うと、この入院騒動の一件とかでもう本当に意気消沈しておりました。

現在も準備の段階で話が進んでいるとある手続きや、この入院の一件とかをきっかけにして、人生において「諦める」とは何なのかを深く考えさせられました。

人生の数々ある物事に対して、諦めて割り切るというのは本当に気力がいる事です。

恐らくそれは登山のそれと同じで、人生ってのは登る事よりも、降る方にエネルギーが必要なんだと思います。

ましてや、今まで「生存する。」という一点に関して一切を妥協せず、賭け続けてきた僕には、それはとてつもない労力でした。

そういうことを考えつつ、28日は入院騒動以来の診察でした。

最近の主治医さんはとても話しやすい雰囲気で、上記の準備段階で事が進んでいる手続きとか諸々を語ってみました。

手続きの事に関して、主治医さんが口を開きました。

政宗さんはかつて、『いつか病を克服して、社会から今まで受け取った分を恩返しして還元したい。』と仰っていませんでしたか?」

「それは今でも思っています。」

「でもその手続きを取るということは、諦めるということですか?」

その言葉の後は、なんて返事をしたのかよく覚えていないです。

あの診察から三日、未だに僕は考え続けていました。

僕は何を諦めようとしていたのか。

自分は本当に諦めたいのか、それとも賭けに出て戦い続けたいのか。

いや、まあ、正直に全部打ち明けます。

疲れ切ってたんです。

28日の診察を受けるまでは、諸々にケリを付けようと、全てにカタを付けるつもりで生きておりました。

幕を引いて、ひっそりと今の世捨て人スタイルを深化させていこうと、今の自分にはこれまでの思い出があるだけでも十分だ、そうだこれ以上は何も要らない。

そう考えていた次第です。

終活、と言えば聞こえはいいものかもしれませんが、実際やってみて、そんなに美しいものではないのがよく分かりました。

で、話は医師の診察に戻るのですが、僕の主治医さんは基本的に上記のような問いかけはしない方なんですよ。

その主治医から「諦めるんですか?」と問われたわけです。

こればかりはちょっと衝撃を受けてしまいました。

それからずーっと考えていたんだけど、やっぱり諦めたくないです。

もっともっと、頑張り通しでやってみたい。足掻いて抗い抜きたい。


足掻く結果として、今までも、そして多分これからも、過去のあらゆる積み重ねが現在の自分へと土砂降りの様に降り注ぐとは思います。

それでぬかるんだ足元の泥は、けっして僕を離そうとはしなかったです。

それは恐らく、そして残念なことに、これからも変わらずにそうなのだと思います。

これまで手に入れたあらゆるモノは零れ落ちていったし、これぞ自分の求め抜いた真理だと思ったものも、あっけなく壊れていってます。

だけど、触れ合った人たちの温みはしっかりと覚えている。

これだけは確かです。

そして、人生は短いが、先は長い。

だが終わりが来るときは一瞬だ。

ならせめて、後悔が無いように、生き急がねばならない。

だから、もうちょっと、頑張ってみようか。

なんとか生き延びた。

金曜日の夜中にちょっと頭の中に深めに潜ってグニャグニャと25年熟成モノの考え事をしていたら、まあ土曜の寝起きから巨大な希死念慮に囚われてしまいました。


今こうやって文章を書けているのが本当にラッキーで、下手したら昨日か今日でこの世を去っていた可能性が濃厚で、今回は本当にヤバかった。


行動する都度、普段からの癖で文章記録は取ってて、自分で読み返してみたら、まあ「入院した方がよくね?つうかよく生きてたなあんた。」以外の感想がない。


こういう時わりと足が動くってのは本当に厄介だなと実感。


かといって人に話してスッキリするような考え事かというと、そういう問題でもない。


たぶん一人で思考し続ける疲れもあるのでしょう。


でも自分で答えを出せないと納得できないですからね。


何とか生き抜いてやっていくしかない。


とにかく、この二日間、どこで何を考え、何をしていたかの詳細は省きます(書き出しはしたけどとても人に見せられない)


今も鬱々としているけど、何とか希死念慮のでかい波は引きました。

 

とりあえず、もう寝ます。

この人生を何とかしたい気持ち。

ここ十日ほど、予定がある日以外は、体調不良で一日の半分ほど寝込んでいる。

寝込んでいる理由としては、医師の判断のもと、抗うつ剤を減らしていることや(抗うつ剤で元気になられる方がよほど厄介なので)、
自分自身の思考パターンに原因がある。

寝込んでいる間に、音楽を約2600曲と、いくつかの絵画図録と詩集を読み、動けるときに何件かの美術展示に足を運んだ。

悩める先達が、どのようにしてその苦しみを表現まで昇華しているのか、知りたかった。

僕自身も何かしらの形で悩みや苦しみを昇華しないと、解放されない。それだけは分かっている。

今回、いいや、今回だけではない、僕が常に問題だと思っていることは、頭の中の考えている事だ。

人生は、体を動かせば何かしらの結果が付いてくる。

だけど、僕が求めているものはそういうモノではない。

結果など始めから求めてなどいないのだ。

それにはさほど興味はない。

周囲の人間が、生きるうえで絶対に必要として求めるものが、今までの僕には、価値を感じられなかった。

それまで僕が求めていたのは、働いたうえでの対価や、他者からの承認や、存在の肯定ではない。

自分自身の問いを、自分自身の考えによって、納得することだけを求めていた。

なんで生まれてきたのか、なんで死ぬのか、やはりそれには今でも納得がいかない。

半年ほど前までは、生も死も、理屈が分からなければそれはただの虚無で、それ以上考えて恐れる理由がないと結論付けていた。

今は違う。

これは恐らく、虚無に対する怒りだ。

納得できなくて、僕は怒っている。

怒っているからこそ、何も受け入れられない。

もしかしたら、少しばかり悲しみも混ざっているのかもしれない。

どうすればいいのか。

どうすればこの感情が治まるのか。

もしかしたら、本当は解答なんて求めていなくて、ゴニャゴニャ悩み考え続けたり、怒り続けるのが目的なのかもしれない。

だけど、こうやって求め続けている限り、僕は僕で居続けられる。

だからもっと、もっともっと人生を加速させて、突っ走りたい。

加速して大気との摩擦で輝く探査衛星の様に、それを見つめる人間が美しいと感じる生き様を、爪痕をこの世に残したい。

そう、まだ俺は人間なんだ、だから、怒りや悲しみに飲まれてはいけない。

母が亡くなって、6年経った。

あの日からの6年間は、茨の道の様な、それでいて穏やかな凪の様な日々だった。

生き物は親を超えるもの、という精神的親殺しの概念に照らし合わせれば、僕は何度か母を殺している。

これまでの6年間、とても口の堅い人物二人にしか話せていなかった事実がある。

僕は母が亡くなる1か月前に、母とある約束を交わしていた。

それは、いよいよあの人の命が危うくなったら、僕がとどめを刺して、僕自身も後を追うという約束だった。

だから、メンヘラ.jpに投稿した記事の中にある、亡くなる直前の母から「殺してくれ。」と頼まれた時のやり取りは、実際のやり取りとはちょっとだけ違う。

あの時、母は「約束したのだから、頼む。殺してくれ。後から追って来てくれるんだろ?」という旨の発言をした。

その発言を聞くまで、僕は本当にそうするつもりだった。

でもその言葉を聞いてから、「出来ない。」と返事をするまでの5秒間は、人生で一番悩み、そして一番長かった時間だと思う。

あの時、母にとどめを刺さないという選択をした時点で、あの男は死んだ。そして母も。

そしてこの男は、それからの6年間を出来る限り贖罪に費やした。

とても、想像を超えるほどの長い時間だった。

ほぼ毎日、母が夢枕に立って責めてきた。

母の立場としては当然だろう。

しかしそれもここ最近は全く見なくなっている。

きっかけは先週見た夢だと思う。

夢枕に立った母にいつものように責められた。

そしてこう言われた。

「もう十分すぎるほどに頑張ったんだし、こっちにいらっしゃいよ。こっちは楽だよ。」

なぜだか分からないけれど、カチンときた。

十分?十分頑張った?

違うな、それを決めるのはアンタじゃない。

「母さ…、あんた、亡くなってもう6年目になるんだけど、なんでまだこっちをふらついてんだ?そっちはよっぽど暇な場所なんだな。そこにあんたが居るうちはぜってえ行かねえからな。」

すると母は何とも言えない顔つきになって、消えた。

たぶんこれで、概念的な母殺しは完全に完了したのだと思う。

長い6年間だった。

さあ、新しい時間を刻もう。


おわり。

ライフハックを書き残したい。

今まで色々なことがあった。

ある人にこの31年の人生を言わしめれば、それは悲惨の一言であったり、また別の人から言わせると、まだまだ序の口だったりと評価が分かれる。

間を取って、「酷いものでも大したものでもない人生。」としておこう。

とにかく、約三十年間「まだ生きていたい。」という意志を抱いて、死にたさに飲まれながらも、何とか生き延びてきた。

残念なことに希死念慮の死にたさにはまだ包まれている。

でも、俺は死ぬつもりなんてないし、絶対にまだ死ねない。

だからこそ、残念で悲しいことに人生は続く。

重要なのは命を落とさない、あるいは奪われない事なのかもしれない。

「まだ生きていたい。」という意志で生き延びてきたけれど、具体的にどうやって生き延びてきたか?それを書くべきなのか?

ある時の話をすると、究極の金欠とどん底の鬱が重なって、10日間砂糖水を飲みながら生き延びたりした事もあった。

似た様なサバイバル話は沢山ある。

だけどここまでの突き詰めた状況の話に需要があるんだろうか?

たぶん無いだろう。

人の数だけ状況があるのだ、個人の体験談にそこまでの普遍性は与えられない。

そこで気が付いた、たぶん重要なのは心構えや、覚悟の様なものだ。

俺自身、「生きていたい。」という意志だけで生き延びれたんじゃない。

それを支えてくれた力の一つとして、本に書かれた言葉たちがある。

そう、数々の言葉が、僕に生きる力を分けてくれた。

きっと、そういった人を勇気づける言葉を、僕は書き残したいのだ。

終わり。

政宗さん、再び音楽の道に戻るの巻

1月某日

「先生、創造性と表現力が働かないんです。趣味の文章も書けないし、音楽のアイディアも出ない。」

「…政宗さんは感受性がとても強い人です。恐らく、政宗さんの症状の源泉はその感受性にもあると思います。
今処方している薬は、どれもそういった創造性が低下する作用があります。症状を抑えるためには仕方ないのですよ。」

「じゃあ、もうアイディアは出てこないんですか?」

「どちらを取るかです。症状の付きまとう創造性か、平坦で平穏な状態か。」

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それからというもの、じわじわと、背後から影が這い寄るように、僕の創造力と表現力は落ちていった。

ダラダラと書いてきた文章の書き出しが思いつかない。

当時所属していたバンドの曲作りのアイディアも浮かばない。

当然、思考力も回らない。

メンバーから「こういうフレーズを弾いてくれ。」と頼まれても、それを覚えるのすら人の五倍くらいの練習を要した。

その変わり、練習して覚えたフレーズは頭が完全に忘れても、ベースを構えると手が勝手に動いた。

一番困ったのはリズム感だった。

もともと危うかったのが、思考力の低下でさらにガッツリとやられた。

だんだん、自分の出来ない不甲斐なさが苦痛になっていった。

それでも人前で演奏する時は、出来る範囲で演奏面では様々な気を使った。

弦を弾く強さ、弾く位置、弦を押さえる指の角度。

創造力は落ちても、体の使い方には注意を払えるのが救いだった。

おかげで、当時のメンバーからの又聞きの形で、他の演者さんから僕のベース演奏に関してのお褒めの言葉を頂けたこともあった。

頭は働かなくても、体は使えるのだ。それが分かったことは収穫だったと思う。

でも、どんどん創造力、表現性は落ちていった。

6月の時点で、アイディアが完全に出なくなってしまっていた。

本当に苦しかった。
創作の生みの苦しみすら味わえなくなっていた。

並行して、当時余命半年と言われた父の闘病生活も絡んできていた。

僕は定期的に埼玉に帰って、父の面倒を見たりしていた。

流石にメンタルが不死身レベルの僕でも、どんどん肉体は疲弊していった。

6月末のある日、疲れ切った僕は、当時住んでいた横浜の部屋のベッドの上で二日近く意識を失っていた。

じわーっと意識が戻り、ぼやけた視界でスマホのカレンダーが7月に変わっているのを見て、もう潮時だなと思った。

このままでは、父も僕も死ぬんじゃないだろうか、という予感が働いた。

死ぬわけにはいかない。

生き延びねば。

それから数日後、僕はバンドメンバーに埼玉に一時的に引越して帰ると告げた。

余命宣告された父の残り時間も迫っていたからだ。

そして埼玉に帰った。

それからしばらくして、父はどういうわけか一命を取り留めた(人体の不思議レベルの回復力で)

しかし、僕の創造性と表現力は回復しなかった。

表現で何も出来ない事が相当なストレスになった。

同時期、バンドでも色々な変化が起きていた。

たぶん、このバンドは大きな変化にある時期なんだろう。

そして今の自分の精神状態、能力ではかえって出来ない事がストレスになる。

少なくとも、この状態が続いたらそれは大きなストレスだ。

それはバンドにも良くない。

昔から変な潔さだけはあった。

他にも様々な事情はあったけれど、僕は当時のバンドを抜けた。


それからどう過ごしていたのかというと、10日近く寝込んだ後、ある方法を思い立ち、ひたすら文章のインプットを増やした。

多い時では一日4冊ほど本を読んだりしていた。

大量の詩集やエッセイなどを消費した。

本以外にもネット上のテキストも漁った。

そうやって、頭に他人の感性を大量にインプットした。

古くなったガラケーのバッテリーは強い電流を流して復活させることが出来る。

それを脳の感受性に応用してみた。

荒療治なショック療法だったけれど、結果は狙い通りだった。

薬の処方は変わってないのに、自分の基準では人並みレベルの感受性を取り戻せた。

さて何をしようか、と思っていたところに、ある友人が声をかけてくれた。

「バンドやってみたいのでベース弾いてください。」

まさか、もう音楽活動のチャンスはないかもしれないと思っていたら、こんな嬉しい話が舞い込んでくるなんて。

僕は二つ返事で承諾した。

6時間後には他パートのメンバーも揃った。


というわけで、政宗さんバンド活動再開するっぽいよ。


終わり。