統合失調感情障害患者の徒然日誌

毒にも薬にもならぬ文字を書き捨てる。

宗教、アルコール、そして依存 ~精神疾患と希死念慮に向き合い続けた僕の人生の、裏側~

 久しぶりにパッションが溢れて文章を書きました。

 今回は最初に公開した記事(https://menhera.jp/2578)の、今まで身近な人にしか語っていなかった裏側を語ろうと思います。
 やっとの思いで筆を執っていますので、拙い文章になると思いますし、決して人に誇れる話ではないです。
 大きな失敗談として、皆さんに読んでいただけると幸いです。

 


・幼少期の家庭不和の裏側について
 記事には伏せていましたが、僕の両親は熱心な宗教信者でした。
 どこの宗教なのかは伏せておきます。
 当時の両親の不和の原因の一つに、母から見て父の信仰心が足りない、というものがありました。
 母が心中を迫ってきたきっかけの夫婦喧嘩も、経済面以外に、この信仰心が足りないという事柄が絡んでいます。
 
 もう一つの原因として、母の家系はアルコール依存の患者が何人かおり、母には診断は下っていないものの、母にもその気は十分にありました。
 酔っ払うと、父か僕と喧嘩になるレベルの絡み酒になる事はしょっちゅうで、これがますます家庭の不和を生んでいったのです。

 これらの原因で不和になった家庭から目をそらすために、母はますます宗教にのめり込む、そしてさらに不和を生む。
 当然、母の酒量も増えていきました。

 まさに負のスパイラルが生まれていたわけです。

 5~6歳ごろの話です。いつものように母に引っ張られて宗教の集会に連れられていく時に、僕はそれを拒否しました。
 何で行きたくないのかと問うてくる母に、僕はこう答えます。
 「世界を平和にするのが目的なのに、父さんと母さんはそれでいっつも喧嘩してるじゃないか、だから僕は信じれないし、行きたくない。もう行かない」
 言い終わってから体に衝撃が走りました。
 母のフルスイングビンタです。
 「おまえそんなこと言っtくぁwせdrftgyふじこlp;!!!!」
 母はひとしきり叫び、僕を蹴り飛ばした後、玄関を思いっきり締め、集会に一人で向かっていったのでした。

 それからは毎年母との大喧嘩が増えていきましたし、父も父で、「お前が素直に従っていれば済むことだろう」というスタンスで、ますます家庭の溝は深まっていきます。
 
 今僕がその宗教に入っているかというと、答えはノーです。
 きっかけは僕の大晦日のそばアレルギーでした。
 僕が友人たちの手で助けられ、病院に搬送された時、両親に連絡が付かなかったのです。
 理由は単純で、その時両親は宗教団体の大晦日の集会に行っていたからで、僕の友人はたいそう怒っていました。

 それが引き金となり、僕も怒っていたので両親と大喧嘩をし、結果的に「そこまでお前が言うなら脱会させてやる」と言われ、宗教団体から脱会しました。

 この結果に母は不服だったようで、不安に煽られた母はますます酒癖を悪くし、そして宗教にのめり込んでいきます。
 これを機に家族の溝は毎年深くなっていきますが、これ以上は似た様な話なので割愛します。

・社会人になった時の大きな失敗
 さて、教授の紹介で就職した僕ですが、初月からとんでもない業務量に忙殺され、シャレにならない残業時間をたたき出し続けました。
 働き出して2か月目くらいからパニック発作などの症状が出ていましたが、記憶が確かならそれより少し前から不眠の症状も出ていました。
 ここで厄介なあいつが出てきます。
 そう、アルコールです。
 最初は眠るために飲んでいましたが、徐々に増えていきました。
 決して誇れる話でもないダメエピソードですが、明け方近くまで飲んで、結局眠れず、そのまま仕事に行くなんて日もありました。
 こうなるよりも早いタイミング、出来れば不眠症状が出始めていた辺りで病院に駆け込んでいれば、もっと違う未来もあったかもしれません。

・20歳で精神疾患を再発した時の、初期の失敗。
 統合失調症という診断が下って、自宅入院という造語のもと、僕は投薬の負担で半年から一年間ほぼ布団で寝たきりで過ごしました。
 起き上がれるようになったころには、体重が20キロ増えていて、その体重も半年かけて元の数値近くまで減量させたり、色々と頑張りました。

 しかし、体が動かせるようになると、僕の悪癖も活動を始めたのです。

 そう、再び酒が悪さをします。
 酒を飲んでから二時間以上空ければ、処方薬を飲んでも大丈夫という謎ルール(逆もあった)のもと、僕は一晩で40度ある酒を1.5本とか2本とか飲んでいました。 
 大丈夫なわけがない。
 ハッキリ言って、いくら処方量を守って薬を飲んでいたとしても、これでは体内のアルコールと処方薬が反応して薬物乱用と同じくらいの効果を出してしまいます。
 あの頃からは一定の回復はあれど、20歳からの治療が12年も掛かっている原因はまさにこれでしょう。

 いまでも酒におぼれているかというと、それもノーです。
 今は月に2、3回をコップ一杯にとどめるか、場合によっては全く酒を飲まない月もあります。

・終わりに
 こうやって人生の裏側を暴露したわけですが、今は良い感じに立ち直っております。
 早死にするかと思っていた人生ですが、幸いなことに32年も生き延びられていますし、これからも人生は続いていくのでしょう。嬉しいやら悲しいやらではありますが。
 これから先もやっていくために、 生き延びていきましょう。


 ~終~

徒然近況報告

先日親友から受けたリラックス英才教育のおかげか、比較的安定して過ごしています。

 

幸いなことに本日の精神科通院にて、抗うつ剤が一錠減りました。

今後の経過を見つつ、2ヶ月に一錠ずつ減らしていくことになりました。(現在3錠、ピーク時の半分)

 

とは言っても抗うつ剤以外にさまざまな抗精神薬を飲んでいるんだけど、それはそれで焦らずじっくりとですね。

他に起きた変化として、これは凄いなっていうのが一つあって、たまに出てくる希死念慮の持つ明確な自分への攻撃性が激減しました。

希死念慮自体は年々マイルドになりつつあったんです。

 

それでもまだ月に2〜3回は、死にたさすぎて布団の中でのたうち回っていたのだけれど、そういう苦しさを伴うモノが本当に激減しました。

 

今は白紙のキャンバスになった気分です。

 

ここまで来られたのも、根気強く支えてくださった周囲の人々、また親友たちのおかげであり、そこには僕自身の努力もおそらくは少なからずあったと思います。

 

ここまで来るのに本当に長かった、とても。

 

いつか再び落ち込む時は来るのかもしれないけど、できるだけ対策を練りつつ、人生を前に進めていきたいと思います。

今なら色々やれそうなので、挑戦していきます。

おわり。

リラックス技術の英才教育を受けてきた。

一昨年の8月ごろからの出来事を、ちゃんとまとめておきたいのだが、思考や感情に様々なノイズが上乗せされて上手くいっていなかった。

特に、一昨年から立て続けの形で自死してしまった二人の元恋人のことや、父と体験した地獄の様な闘病生活について。

どうしたもんかな、と、考えあぐねているところに友人から連絡があり、24日頃から3日間ほど、友人の手ほどきで本格的な「リラックス」の技術を学んできた。

主にリラックスしながら水たばこなどの嗜好品を嗜んだりする技術や、リラックスして眠るコツなどの英才教育を受けてきたのであった。

本格的なリラックスの方法を学んだ今、これまで僕がリラックスだと思っていたものはなんだったのかと、疑問に思わざるを得ない。

お陰様で日ごろから悩まされていた鬱が軽減されたし、5~6歳から続いていた自律神経失調症由来の体の震えもかなり減った。

見た目の変化では猫背も治り、表情がかなり明るくなったそうだ。

それに伴った気持ちの大きな変化としては、常日頃からあった強い自責の念が、ついに晴れた。

それによって、上記の一昨年からの出来事に関して、気持ちの面で切り替えを行うことが出来た。

切り替えが出来たことで、僕はやっと前に進むことが出来る。

 

××さん、△△さん。

あなた方と過ごした時間や自死を知った時の事、今になって振り返ろうとしても、もう記憶が朧気です。

まだ時間も浅いのに、それは、とても、本当に情けないことなのかもしれない。

あなた方の生きた時間を、僕は絶対に覚えていないといけないんだろうけれど。

でも、もうどこにも居ないんだろ?

数少ない残された君たちとの思い出は、勝手に美化されるだろうけれど、もうこの世にいない以上、これ以上に好きになりようがない。

だからさ、僕はもう前に進むぜ。

ありがとう、友よ、じゃあな。

お醤油のお話。

唐突だが、お醤油が大好きだ。


幼少期から、夕飯のお刺身に付けるお醤油が大好物だった。

お刺身がメインではなく、味覚に強烈な刺激を与えてくれるお醤油が、僕にとっては真のごちそうだった。

マグロ?そんなものは知らん、どうでもいい。

それよりお醤油だ。

そんなお醤油好きが高じてか、僕はたまにお醤油を飲む。

初めてお刺身を食べた時に、小皿に残った醤油を飲んだことがきっかけになっていると思う。

いや分ってる、引かないでもらいたい、飲むと言ってもほんの少量なんだ。赤紙対策でもないんだ。

どれくらいの量かというと、小皿にほんのちょっと醤油を垂らして、それをずずいっといく。

口の中に、香ばしさと大豆由来アミノ酸のうま味、塩分が広がっていく。

まさに至高の瞬間。

そんなこんなでお醤油好きが高じて、某農大の短期大学部醸造学科にまで入学してしまった。

そんな短期大学部も改組転換だかなんだかで吸収されて消えてしまったのだけれど。

そんな感じで醸造知識を深めていったおかげで、当時は醤油の種類をティスティングで判別出来る様にもなり、僕の醤油飲みライフはとても充実していった記憶がある。

この行為が世間ではおかしいことだと認識されていることに気が付いたのは、当時同級生と飲み会に行った時である。

居酒屋の据え置きのお醤油が、プライベートブランドの商品だと気が付いた僕は、味を確かめるために小皿に醤油を垂らし、飲もうとした。

その瞬間、同級生たちに「体壊すからやめなって!!!」と必死に止められたのである。

????

「え、お醤油飲んだりしないの?」

「普通飲まないよ、体壊しちゃうじゃん。」

えぇぇ、こんなに好きなのに飲んじゃいけないのか、知らなかった。

それ以来、お醤油はあまり飲まなくなったのだけれど、なぜこれを今こうして書いているかというと。

実はさっきお餅を3つほど焼いて、お醤油で食べた。

残った少量のお醤油を見ていると、いてもたってもいられなくなり、結果として飲んだ。

かなり久しぶりに飲んだお醤油は、とても美味しかった。

塩分イズジャスティス!!!

余談だが、僕は味噌をオカズに白米を食べたりもするが、その話はまた別の機会に。

クリスマスイブ、大晦日、元旦、正月明け。

年末から年始にかけて、他者の「死にたい気持ち」に触れてました。

思えば自分の死にたい気持ちにはとことん向き合っているけれど、他者のそういった気持ちはあまり見聞きしたことがないと思う。
(とは言ってもそれなりに人から聞いてはいる。)

23日の夜に、都内在住の人物から夜中に「確実な死に方を教えてください。」という連絡がきた。

本人の口調はろれつが回ってなくて、おまけに相手は泣いていて、言葉をうまく聞き取れない。

説得を試みたけど途中で通話が切れてしまう。

連日の体調不良で翌日の昼過ぎに起きて、初動をミスったと思いつつ都内まで向かう。

本人は家でぶっ倒れてたけれど何とか生きていてくれた。

とりあえず看病で水分とかを多めに飲ませて、夕方になって川崎をぶらぶらして解散。

二日後の26日に一緒にガンダムの新作映画を見たり、年末年始は「おせちが余るから食べに来る?」とお呼ばれしたので、再び都内へ。

三日に埼玉に帰ってきて、四日の夜に連絡をしたところ、ひっ迫した状況になっていた。

慌てて終電で都内に向かって、初手で救急に連絡するか悩んでいるうちに都内へ。

当人は生きていてくれて、その人が落ち着いて冷静にしゃべれるまでずっと待ち続けた。

途中で眠ったりしつつ、翌日の午後4時ごろからぽつりぽつりと、その人は自分の死にたい気持ちを喋り出してくれた。

連続的に身内に不幸が続いていて、「自分よりも先に人が逝くのが悲しい、悲しくて耐え切れないからみんなよりも先に死にたい。」

泣きそうな顔でそう語っていた。

その人の悲しみがなんとなくの形で伝わってきて(だって個人の悲しみはその本人にしか抱けないから、完全には理解しきれない。)

ものすごく言わんとしていることは伝わるんだけど、どうしても完全にわかってあげることが出来なくて、でも分かりたくて。それがとても、もどかしかった。

僕自身も色々な死を乗り越えてきて、なんでこんな辛くて悲しい思いをして生きていなきゃいけないのか、全く分かっていない。

こんな悲しい思いをするなら生きていたってしょうがないとさえ思う。

それに、僕は高校、短大と微生物を通して生命にかかわる学問を修めたというのに、未だに命の意味が分かっていない。(これに関しては本当に愚かだと思っている。)

だから今でも自分の命の意味と実存を知るために、死のうと考えている時が頻繁にあるし、こういう思考の癖がついている。

それでも生きているのはかなり偶然に近いし、この偶然の根底にあるのは、かつて母から心中を迫られた時に「それでも生きていたい。」と言った言葉が働いているからだ。

それでも生きていたいと言った以上、僕がそれを突き通さなければ嘘になってしまう。

なぜそこまでして生きるのか、僕に理由は分からない。

分からない以上、確かめねばならない。

でも確かめていくことも辛い。

それでも生きていた方が幾分かマシだったと、僕は自信を持って言えるから、だから皆に「それでも生きようよ。」と言い続けたい。

 

2018年 総まとめ記事

さてさて、今年は(も?)色々ありましたね。

主に去年の八月から色々あったので、トピックスをまとめてみましょう。


2017年8月
バンドメンバーのツテで横浜に引っ越す。
さらにメンバーの親御さんの会社にバイト入社。

別れてからも友人付き合いのあった元カノが自死

2017年9月~2018年4月
上記の出来事で徐々にメンタルが不安定になっていく。
入院するかしないかを迫られている時期の12月に人生初ライブを行う。
ライブの影響か少しはメンタルを持ち直す。
以降、毎月メンタルが乱高下し、何度か入院しかけるも、ライブをするたびに一時的に回復。

2018年2月(1月?)
父が末期がんで余命半年の宣告を受ける。
埼玉に住むある元カノが飛び降り自殺未遂を起こす。
元カノは腰の骨を粉砕骨折し、一命は取り留めたものの、歩行は出来るが走れない体になる。(わりとデカいショックを感じた。)

2018年5月
5月についに念願の、横浜の寿町は「音小屋(ねこや)」にてライブをする。
相変わらずメンタルは乱高下、何度か死にかける。
飯を食わなさ過ぎて、血液検査の結果では極度の栄養失調と超低血糖と言われ、それでも活動できていることに医者がドン引きする。


2018年6月
入退院を繰り返す父がいよいよアレな感じになっていたので、埼玉に戻るか悩みだす。

2018年7月
埼玉に戻る。
引越し連絡を友人にしたところ、友人から別の元カノの死(状況的には自死)を知らされる。過剰に処方薬とアルコールを摂取する人だったので…。
引っ越し後、しばらくしてから父の状態が良くなり始める。

2018年8月
どういう訳か、父の癌が消え、ここから父の超回復が始まる。
自分の精神状態的にも厳しかったのでバンドを抜ける。

2018年9月
今までの疲労が出て虚無になる。

2018年10月
徐々に死んでいた自分の感性を取り戻し始める。
Twitterで誘われ、バンド結成。
とは言ってもメンタルがダメダメだったので、入院を検討するが、入院しない自宅療養に徹する。

2018年11月
疲れから虚無になる。
父、職場復帰。

2018年12月
色んな人とオフ会とかやったり。
多分ここ最近で一番充実していたのが12月。
とは言っても色々あった…。もうお腹いっぱいだから書かないけど…。

今年は本当に色々ありました。
皆さまには生ぬるい感じの目線で見守っていたき、本当にありがとうございます。

来年も頑張りますので、なにとぞよろしくお願い申し上げます!!!

xx歳になれなかったあなたへ、来年32歳の私から。

◇◇様


お久しぶりです、政宗です。


こうやって手紙を書くのも何度目かになりますね。


僕が30歳になる数ヶ月前、あなたは「やだなぁ、私ももう少しでxx歳だよ。それでも政宗さんには追いつけないけれど、もう老けたくないなぁ。」と言っていましたね。


あれから時が経ち、もうじき僕は32歳になる年号に突入しそうです。


あなたの時間は過ぎることなく止まってしまっています。


先日、埼玉県の某所で立ち往生している車椅子の女性を手助けしました。


声をかける直前、髪型と横顔があなたに似ていると思って、声をかけるのを少しためらいました。


勇気を出して声をかけた時、その人の声を聞いて、その人には失礼だけれど、一瞬凍りついてしまいました。


あなたと声もそっくりだったし、正面から見た顔のつくりもそっくりだったのです。


そんな出来事があって、あなたを思い出しました。


だから今、改めてこの手紙をしたためています。


あなたが去ってから、色々考えました。


あなたの言っていた「だから政宗さんは死ぬまでひとりぼっちだよ。」や、遺書の中にあった「私は政宗さんに本気で怒られたかったんです。」とか、そう言った言葉たちです。


あなたは僕に文学の面白さを叩き込んでくれた人です。


だから相応に言葉の重みも理解していて、その上で、ああいった言葉を投げかけてきたのだと、僕は認識しています。


結果的に話すと、僕はいま物理的には一人ぼっちではないです。


だけど、あなたはこういうことを言いたかったのではないと、今はそう思います。


多分、僕の心の持ちようが「死ぬまで一人ぼっちだよ。」と、そう言いたかったのでしょう。


そういった意味では、その予言は当たっています。


大昔にあなたに話したことがありますね。


「変なスイッチが入ると、世の中の全てが茶番に見えてしまうんだよ。」


この言葉を分析して、あなたは「物事を茶番と認識した時点で、あなたは一人ぼっちになってしまうからね。」と、こう言いたかったのでしょう。

 

あなたは知っていると思いますが、あなたの嫌いな作家の太宰治の作品に、「トカトントン」という作品があります。


作品中に出てくるある男が「トカトントン」という音を第二次大戦の終戦時に聞き、それ以来何かに情熱を注ごうとしても「トカトントン」という音が頭の中に聞こえて、やる気を削がれて辞めてしまうという内容です。

 

今の僕はまさにその状態に近い時を、1日に二回は経験します。


多分これは病気ではなく、僕の心の持ちようなのでしょうね。


あなたはそれをとうに見抜いていた。


だからそういう意味で「あなたは死ぬまで一人ぼっちだよ。」と言ったのですね。


流石の観察力です。


それには今でも頭が上がりません。


この問題は僕自身で解きほぐさねばならないことなのでしょう。


だからこれ以上の言及は避けます。


僕に本気で怒ってもらいたかったこと、それは今でも後悔しています。


僕の変な情けが、いや違う、物事を茶番だと思うその気持ちが、あなたを本気で怒らなかった一番の原因であり、僕の最大の失敗であり、後悔です。


きっとそれすらもあなたは見抜いていたのでしょう。


そう言った意味では、僕は人間を舐めていたのかもしれません。


ここまで見抜かれた上で、あなたはあの遺書を残したのでしょう?


あなたの命を張ったその証明を理解するのに、僕はとても長い時間を要してしまった。


本当にごめんなさい。


今なら、今だからこそ、僕は本気であなたに怒ることが出来るのでしょう。


周りから見れば、それは遅かったのかもしれない。


でも違う、あなたは全てを、自分の命の損失さえも、織り込み済みだった。


「どうせ逝くなら、最後に宿題を残してやろう、せめてそれくらいは。」


きっとこれがあなたの、あんたの、最後に遺してくれた遺書より先に続く手紙だと思って、今は納得しておきます。


ありがとう。

 

じゃあ、またね。