統合失調感情障害患者の徒然日誌

毒にも薬にもならぬ文字を書き捨てる。

痛みと想像力を取り戻して、現実に帰ってきた話

唐突だが、最近色々な痛みが分かるようになった。

 

分かるようになったとは言っても、まだ自身の痛みには鈍感なところが多く、これも人間らしさの再履修だと思ってじっくりと取り組んでいる。

 

色々な痛みと書いたのは、自分以外の他者の痛みにも思いを巡らせることが出来る様にもなったからだ。

 

他者の痛みなので、自分が知覚したり、感じることは出来ないのだが、自分なりにしっかりと想像力が働くようになった。

 

少しずつ、世の中に対して意味を見出すようになってから、こういう風になれたのだと思う。

 

人生のある時期から、世の中の事は全部作法の定められた茶番で、創作とか表現物のような芸術事にしか意味を見出せない時期が、長いこと続いていた。

 

その感覚が強い日は、目の前の人間は皆、呼びかけると音の出る不思議なジャガイモの様に感じていたりしていた。

 

現時点でも物事に対する茶番感は、未だに拭い切れていないと感じる時はある。

 

けれど、それでも僕たちは生きている。

 

生きていることに意味を求めることは、不幸なことではない。

 

こう思うようになった切っ掛けは幾つかあって、そのうちの一つが、ここ二年の間に畳みかける様に起きた、繋がりの深い元恋人でもある友人二人の自殺だ。

 

今までは「自死」と表現していたが、「自殺」だ。

 

二人とも、本当に大切な親友だった。

 

友人達が亡くなったことは未だに悲しいし、おそらくこの悲しみが癒えることはない。

 

この出来事はショック療法の様に僕に痛みの感覚を取り戻させた。

 

何度も泣いたし、思い出す度に何度も心が折れた。

 

そして、今まで以上に起きた出来事に意味を求めるようになった。

 

意味が無ければ、彼女たちの死が無駄になってしまうと思ったから。

 

この二人に関しては、今までも少しだけ書いてきたし、現時点でもこれ以上語る資格を僕は持ち合わせていないのでここではいったん口をつぐむ。

 

痛みが分かるようになって、若干の想像力が働くようになったころ、よく遊ぶ都内在住のある親友と文通を再開させた。

 

この文通が想像力をさらに強化するきっかけになってくれた

 

手紙を読むことで、他者の感情と考えていることを知る。

 

おかげで、他者がちゃんと独立した思考と心を持った人間であると、しっかり認識できるようになった。

 

ふと、思い出す。

 

いつからあの厄介な希死念慮に振り回されてないのだろう。

 

気が付いたら、一か月半ほど死ぬことについて全く考えていなかった。

 

最長記録だと思う。

 

考え事の結論は出ずとも、もしかしたらこれで希死念慮とはしばらくサヨナラなのかもしれない。

 

あの暗い考え事たちも、希死念慮と同じくなりを潜めている。

 

茶番から抜け出して、現実という新たな人生の段階へと突入した証拠なのかもしれない。

 

今までの自分の苦労を肩代わりしていた希死念慮などの思考達に、敬意を表しつつ、少しずつ、ゆっくりと前に進んでいこう。

ここ3日くらいの近況報告

前回の軽い長文に書いたように、気合いジェネレーターを停止すると方針転換してから、まあのんびりと過ごしていました。

普通の病人的な過ごし方をするのは、十何年ぶりかと。

これはこれで真面目に行うべき営為だなって思いました。

休むのは本当に大事。

なんというか人間として足りない部分を最近は再履修している気がします。


んで二日前の朝、親友から「助けて」とヘルプの連絡があり、

まあその救難信号の具体的な内容は省くけれど、友人の最寄り駅まで行ってポリスメンの助けを借りつつ何とかしてきたり。

ポリスメン沙汰はわりと久しぶりな気がした。

この日は頑張らなきゃと気合いジェネレーターのリミッターを一時的に限定解除したけど、まあいい感じにパフォーマンスを発揮できました。

親友はあばら骨が折れてたり痣だらけの大怪我だったけど、命ばかりは失っていなかったので良かった。

本当に良かった。

 


んで昨日は父と東京ドームで巨人vs中日のデイゲームを見て来ました。

序盤は冷や冷やした試合だったけど、阿部の400号ホームランが見れたり、巨人がサヨナラ勝ちしたりで爽快感が凄かった。

にしても僕は野球のルールとか勉強したわけでもないのに、何で知ってるんだろう?

野球少年でもないので、テレビで見て覚えた可能性があるのかもしれんな。

 

気合いジェネレーターの反動で体調崩すかなって思ったけど、特に反動らしい体調不良も無くて、左肩を寝違えたのか痛いくらい。

今はちゃんとジェネレーターを停止させてだらだらしてます。


親友の大怪我っていう悲劇はあったにせよ、何はともあれ助けられたし、父ともいい思い出も出来たし、良き週末でした。

 

~終~

気合いジェネレーターの停止と、何かと無暗に戦うことを辞めたお話。

振り返れば、今までの人生は戦い通しだった。

戦いの相手は主に自分の不調と、人生の逆境などである。

そのせいで常に何かに駆り立てられて、ずっと緊張状態が続いていた。

もう立ち上がれないと思うくらい、気持ちや体調、折れた心と体を動かしてこられたのは、気合いジェネレーターと僕が呼ぶ謎のガッツのおかげである。

諸々の戦いがひと段落した今年1月末ごろ、親友から本格的なリラックスの手法を伝授してもらった。

それ以来、うまい具合に気合いジェネレーターを動かせなくなっていた。

僕は焦った。

戦いが終わったとは言え、いつ新たな戦いが始まるか分からない。

備えなければ、すぐにでもジェネレーターを起動できるようにしておかなくては。

武器を用意しなければ、戦えない。

戦えなくなったらそれこそ死んでしまう。

そう思ってからの2~3ヶ月は、うまい事動かないジェネレーターに対しての焦りが募るばかりだった。

だけど5月に入って、考えの方向性を改めることにした。

もう、無暗に戦わなくていいんじゃないか?

むやみやたらと戦うより、これから先の人生で待ち構えているもっと大きな戦いに対して、備えた方が良いのでは?

そう思っていた折、先の親友から手紙が届いた。

「気合いジェネレーターに頼る前に、周りの頼れる人を頼ってみて」

「頼れる人が思いつかないのだったら、自分の気持ちを、感情を単語一つでもいいから言葉として吐き出してみて」

「伝わる人には伝わる、『感情』を吐き、生きるための何かを飲み込んでください」

と書いてあった。

そうか、もう頼れる人に頼っていいのか。

もう、一人で戦いに身を投じなくても良いのか。

どうやら、そういう事らしい。

無暗な戦いをしないという判断も、正解のような気がする。

もう、動けないくらいの体調不良とは正面からぶつかるつもりもない。

そうならないための対策を講じる方向性に切り替えよう。

立ち上がれない体を気合いジェネレーターで無理やり動かすこともない。

具合が悪いんだったら素直に寝ていた方が有益だ。

ようやく、人生の理不尽や、自分自身との無益な争いが終わった。

これで解放されたのだ。

~終~

電車に揺られて2時間弱の墓参りイベント

列車の左右の車窓には、赤城連山や榛名山が見える。

ここに電車で来たのは何年ぶりだろうか。

7年前に母の納骨で来て以来か、いや、そのあとに1~2回来た気もする。

もしかしたら記憶の順序がバラバラになっているのかもしれない。

そうだとしたら墓参り自体、これが初めてなのかもしれない。

今となってはその記憶の順序を確かめる術もない。

なぜなら、最近は過去の記憶がとても薄いからだ。

切っ掛けは父の言葉だった。

「GWに入ったら、母さんのお墓参りに行こう」

父が自分からそう言うのは珍しいとも思ったが、それもそのはずだった。

父は父でなかなか墓参りをするタイミングを逃し続けていた。

そんなことを考えているうちに、群馬県はS駅にたどり着いた。

駅から降りると、叔父と従兄が車を止めて待っていた。

気さくにあいさつを交わし、車に乗り込む。

従兄がエンジンを始動させ、車が発進した。

目的の墓所まではおよそ20分。

道中の社内ではお互いの近況報告を話し、「あの人は元気で、あの人はこの前亡くなった」といった会話が繰り広げられる。

そんな話を聞いていて、歳を食ったな、などと僕は思ってしまった。

そして目的の墓所に着く。

父はずいぶん前にここの墓所に墓を購入しているが、そこに母の遺骨は眠っていない。

亡くなる前に離婚した母は、合同墓所に眠ることを希望したからだ。

合同墓所用の墓石の前に立ち、父や叔父、従兄と並んで手を合わせる。

ふと、昔の記憶がよぎる、以前はこうやって墓石の前で手を合わせるだけでよく泣いていた。

だが、今回はそういった兆候は見られなかった。

やはり7年の間に何度か来たことがあるのか?

そう思うが思い出せない。

しかし、7年もたてば涙はもう出ないということなのだろうか。

手を合わせ終わった父と叔父が会話を始めた。

なんでも父の買った墓石の場所をまた見たいらしい。

すると叔父が言った。

「それがね、最近気が付いたんだけど、ここからあなた方のお墓はすぐ近くなんだよ」

すると車に戻るでもなく、叔父は近場の墓石の列へと歩き始めた。

驚いた。

合同墓所から歩いて15~20メートルの場所に、我が家の墓はあった。

こんなに近いところだったとは。

墓石の横には、購入した時に刻まれた父と母の名が刻まれている。

さらに敷設された年号と日付を見て驚いた。

平成元年の5月3日。

本日は5月2日。

一日違いとは言え、今日こうして来たことに、何かしらのつながりを感じてしまった。

墓石の場所からは素晴らしい景色が見える。

そのあとは4人で寿司を食べに行った。

こういう行事があると、たいてい僕は浴びるようにアルコールを飲むのだが、今回は一滴も飲まなかった。

飲みたくないわけでもなく、我慢する訳でもない。

飲む気にならないとか、そういった感情的なものでもない。

ただ、泣きもせず、酒におぼれず。

成長なのだろうか、そう思いながら食べるサーモンとマグロは大変美味しかった。

叔父の家にいき、数時間談笑した後は車で駅まで送ってもらった。

帰りの電車はほぼ放心状態で、地元に着くころに友人から連絡があり、父と別れて友人とラーメンをすすった。

夜の7時ごろに帰宅して、そこから気が付いたらこの時間である。

全身の体力を使ったかのような行軍だった。

疲れたので今日はもう寝るとしよう。

~終~

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青空

 

宗教、アルコール、そして依存 ~精神疾患と希死念慮に向き合い続けた僕の人生の、裏側~

 久しぶりにパッションが溢れて文章を書きました。

 今回は最初に公開した記事(https://menhera.jp/2578)の、今まで身近な人にしか語っていなかった裏側を語ろうと思います。
 やっとの思いで筆を執っていますので、拙い文章になると思いますし、決して人に誇れる話ではないです。
 大きな失敗談として、皆さんに読んでいただけると幸いです。

 


・幼少期の家庭不和の裏側について
 記事には伏せていましたが、僕の両親は熱心な宗教信者でした。
 どこの宗教なのかは伏せておきます。
 当時の両親の不和の原因の一つに、母から見て父の信仰心が足りない、というものがありました。
 母が心中を迫ってきたきっかけの夫婦喧嘩も、経済面以外に、この信仰心が足りないという事柄が絡んでいます。
 
 もう一つの原因として、母の家系はアルコール依存の患者が何人かおり、母には診断は下っていないものの、母にもその気は十分にありました。
 酔っ払うと、父か僕と喧嘩になるレベルの絡み酒になる事はしょっちゅうで、これがますます家庭の不和を生んでいったのです。

 これらの原因で不和になった家庭から目をそらすために、母はますます宗教にのめり込む、そしてさらに不和を生む。
 当然、母の酒量も増えていきました。

 まさに負のスパイラルが生まれていたわけです。

 5~6歳ごろの話です。いつものように母に引っ張られて宗教の集会に連れられていく時に、僕はそれを拒否しました。
 何で行きたくないのかと問うてくる母に、僕はこう答えます。
 「世界を平和にするのが目的なのに、父さんと母さんはそれでいっつも喧嘩してるじゃないか、だから僕は信じれないし、行きたくない。もう行かない」
 言い終わってから体に衝撃が走りました。
 母のフルスイングビンタです。
 「おまえそんなこと言っtくぁwせdrftgyふじこlp;!!!!」
 母はひとしきり叫び、僕を蹴り飛ばした後、玄関を思いっきり締め、集会に一人で向かっていったのでした。

 それからは毎年母との大喧嘩が増えていきましたし、父も父で、「お前が素直に従っていれば済むことだろう」というスタンスで、ますます家庭の溝は深まっていきます。
 
 今僕がその宗教に入っているかというと、答えはノーです。
 きっかけは僕の大晦日のそばアレルギーでした。
 僕が友人たちの手で助けられ、病院に搬送された時、両親に連絡が付かなかったのです。
 理由は単純で、その時両親は宗教団体の大晦日の集会に行っていたからで、僕の友人はたいそう怒っていました。

 それが引き金となり、僕も怒っていたので両親と大喧嘩をし、結果的に「そこまでお前が言うなら脱会させてやる」と言われ、宗教団体から脱会しました。

 この結果に母は不服だったようで、不安に煽られた母はますます酒癖を悪くし、そして宗教にのめり込んでいきます。
 これを機に家族の溝は毎年深くなっていきますが、これ以上は似た様な話なので割愛します。

・社会人になった時の大きな失敗
 さて、教授の紹介で就職した僕ですが、初月からとんでもない業務量に忙殺され、シャレにならない残業時間をたたき出し続けました。
 働き出して2か月目くらいからパニック発作などの症状が出ていましたが、記憶が確かならそれより少し前から不眠の症状も出ていました。
 ここで厄介なあいつが出てきます。
 そう、アルコールです。
 最初は眠るために飲んでいましたが、徐々に増えていきました。
 決して誇れる話でもないダメエピソードですが、明け方近くまで飲んで、結局眠れず、そのまま仕事に行くなんて日もありました。
 こうなるよりも早いタイミング、出来れば不眠症状が出始めていた辺りで病院に駆け込んでいれば、もっと違う未来もあったかもしれません。

・20歳で精神疾患を再発した時の、初期の失敗。
 統合失調症という診断が下って、自宅入院という造語のもと、僕は投薬の負担で半年から一年間ほぼ布団で寝たきりで過ごしました。
 起き上がれるようになったころには、体重が20キロ増えていて、その体重も半年かけて元の数値近くまで減量させたり、色々と頑張りました。

 しかし、体が動かせるようになると、僕の悪癖も活動を始めたのです。

 そう、再び酒が悪さをします。
 酒を飲んでから二時間以上空ければ、処方薬を飲んでも大丈夫という謎ルール(逆もあった)のもと、僕は一晩で40度ある酒を1.5本とか2本とか飲んでいました。 
 大丈夫なわけがない。
 ハッキリ言って、いくら処方量を守って薬を飲んでいたとしても、これでは体内のアルコールと処方薬が反応して薬物乱用と同じくらいの効果を出してしまいます。
 あの頃からは一定の回復はあれど、20歳からの治療が12年も掛かっている原因はまさにこれでしょう。

 いまでも酒におぼれているかというと、それもノーです。
 今は月に2、3回をコップ一杯にとどめるか、場合によっては全く酒を飲まない月もあります。

・終わりに
 こうやって人生の裏側を暴露したわけですが、今は良い感じに立ち直っております。
 早死にするかと思っていた人生ですが、幸いなことに32年も生き延びられていますし、これからも人生は続いていくのでしょう。嬉しいやら悲しいやらではありますが。
 これから先もやっていくために、 生き延びていきましょう。


 ~終~

徒然近況報告

先日親友から受けたリラックス英才教育のおかげか、比較的安定して過ごしています。

 

幸いなことに本日の精神科通院にて、抗うつ剤が一錠減りました。

今後の経過を見つつ、2ヶ月に一錠ずつ減らしていくことになりました。(現在3錠、ピーク時の半分)

 

とは言っても抗うつ剤以外にさまざまな抗精神薬を飲んでいるんだけど、それはそれで焦らずじっくりとですね。

他に起きた変化として、これは凄いなっていうのが一つあって、たまに出てくる希死念慮の持つ明確な自分への攻撃性が激減しました。

希死念慮自体は年々マイルドになりつつあったんです。

 

それでもまだ月に2〜3回は、死にたさすぎて布団の中でのたうち回っていたのだけれど、そういう苦しさを伴うモノが本当に激減しました。

 

今は白紙のキャンバスになった気分です。

 

ここまで来られたのも、根気強く支えてくださった周囲の人々、また親友たちのおかげであり、そこには僕自身の努力もおそらくは少なからずあったと思います。

 

ここまで来るのに本当に長かった、とても。

 

いつか再び落ち込む時は来るのかもしれないけど、できるだけ対策を練りつつ、人生を前に進めていきたいと思います。

今なら色々やれそうなので、挑戦していきます。

おわり。

リラックス技術の英才教育を受けてきた。

一昨年の8月ごろからの出来事を、ちゃんとまとめておきたいのだが、思考や感情に様々なノイズが上乗せされて上手くいっていなかった。

特に、一昨年から立て続けの形で自死してしまった二人の元恋人のことや、父と体験した地獄の様な闘病生活について。

どうしたもんかな、と、考えあぐねているところに友人から連絡があり、24日頃から3日間ほど、友人の手ほどきで本格的な「リラックス」の技術を学んできた。

主にリラックスしながら水たばこなどの嗜好品を嗜んだりする技術や、リラックスして眠るコツなどの英才教育を受けてきたのであった。

本格的なリラックスの方法を学んだ今、これまで僕がリラックスだと思っていたものはなんだったのかと、疑問に思わざるを得ない。

お陰様で日ごろから悩まされていた鬱が軽減されたし、5~6歳から続いていた自律神経失調症由来の体の震えもかなり減った。

見た目の変化では猫背も治り、表情がかなり明るくなったそうだ。

それに伴った気持ちの大きな変化としては、常日頃からあった強い自責の念が、ついに晴れた。

それによって、上記の一昨年からの出来事に関して、気持ちの面で切り替えを行うことが出来た。

切り替えが出来たことで、僕はやっと前に進むことが出来る。

 

××さん、△△さん。

あなた方と過ごした時間や自死を知った時の事、今になって振り返ろうとしても、もう記憶が朧気です。

まだ時間も浅いのに、それは、とても、本当に情けないことなのかもしれない。

あなた方の生きた時間を、僕は絶対に覚えていないといけないんだろうけれど。

でも、もうどこにも居ないんだろ?

数少ない残された君たちとの思い出は、勝手に美化されるだろうけれど、もうこの世にいない以上、これ以上に好きになりようがない。

だからさ、僕はもう前に進むぜ。

ありがとう、友よ、じゃあな。