統合失調感情障害患者の徒然日誌

毒にも薬にもならぬ文字を書き捨てる。

政宗さん、再び音楽の道に戻るの巻

1月某日

「先生、創造性と表現力が働かないんです。趣味の文章も書けないし、音楽のアイディアも出ない。」

「…政宗さんは感受性がとても強い人です。恐らく、政宗さんの症状の源泉はその感受性にもあると思います。
今処方している薬は、どれもそういった創造性が低下する作用があります。症状を抑えるためには仕方ないのですよ。」

「じゃあ、もうアイディアは出てこないんですか?」

「どちらを取るかです。症状の付きまとう創造性か、平坦で平穏な状態か。」

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それからというもの、じわじわと、背後から影が這い寄るように、僕の創造力と表現力は落ちていった。

ダラダラと書いてきた文章の書き出しが思いつかない。

当時所属していたバンドの曲作りのアイディアも浮かばない。

当然、思考力も回らない。

メンバーから「こういうフレーズを弾いてくれ。」と頼まれても、それを覚えるのすら人の五倍くらいの練習を要した。

その変わり、練習して覚えたフレーズは頭が完全に忘れても、ベースを構えると手が勝手に動いた。

一番困ったのはリズム感だった。

もともと危うかったのが、思考力の低下でさらにガッツリとやられた。

だんだん、自分の出来ない不甲斐なさが苦痛になっていった。

それでも人前で演奏する時は、出来る範囲で演奏面では様々な気を使った。

弦を弾く強さ、弾く位置、弦を押さえる指の角度。

創造力は落ちても、体の使い方には注意を払えるのが救いだった。

おかげで、当時のメンバーからの又聞きの形で、他の演者さんから僕のベース演奏に関してのお褒めの言葉を頂けたこともあった。

頭は働かなくても、体は使えるのだ。それが分かったことは収穫だったと思う。

でも、どんどん創造力、表現性は落ちていった。

6月の時点で、アイディアが完全に出なくなってしまっていた。

本当に苦しかった。
創作の生みの苦しみすら味わえなくなっていた。

並行して、当時余命半年と言われた父の闘病生活も絡んできていた。

僕は定期的に埼玉に帰って、父の面倒を見たりしていた。

流石にメンタルが不死身レベルの僕でも、どんどん肉体は疲弊していった。

6月末のある日、疲れ切った僕は、当時住んでいた横浜の部屋のベッドの上で二日近く意識を失っていた。

じわーっと意識が戻り、ぼやけた視界でスマホのカレンダーが7月に変わっているのを見て、もう潮時だなと思った。

このままでは、父も僕も死ぬんじゃないだろうか、という予感が働いた。

死ぬわけにはいかない。

生き延びねば。

それから数日後、僕はバンドメンバーに埼玉に一時的に引越して帰ると告げた。

余命宣告された父の残り時間も迫っていたからだ。

そして埼玉に帰った。

それからしばらくして、父はどういうわけか一命を取り留めた(人体の不思議レベルの回復力で)

しかし、僕の創造性と表現力は回復しなかった。

表現で何も出来ない事が相当なストレスになった。

同時期、バンドでも色々な変化が起きていた。

たぶん、このバンドは大きな変化にある時期なんだろう。

そして今の自分の精神状態、能力ではかえって出来ない事がストレスになる。

少なくとも、この状態が続いたらそれは大きなストレスだ。

それはバンドにも良くない。

昔から変な潔さだけはあった。

他にも様々な事情はあったけれど、僕は当時のバンドを抜けた。


それからどう過ごしていたのかというと、10日近く寝込んだ後、ある方法を思い立ち、ひたすら文章のインプットを増やした。

多い時では一日4冊ほど本を読んだりしていた。

大量の詩集やエッセイなどを消費した。

本以外にもネット上のテキストも漁った。

そうやって、頭に他人の感性を大量にインプットした。

古くなったガラケーのバッテリーは強い電流を流して復活させることが出来る。

それを脳の感受性に応用してみた。

荒療治なショック療法だったけれど、結果は狙い通りだった。

薬の処方は変わってないのに、自分の基準では人並みレベルの感受性を取り戻せた。

さて何をしようか、と思っていたところに、ある友人が声をかけてくれた。

「バンドやってみたいのでベース弾いてください。」

まさか、もう音楽活動のチャンスはないかもしれないと思っていたら、こんな嬉しい話が舞い込んでくるなんて。

僕は二つ返事で承諾した。

6時間後には他パートのメンバーも揃った。


というわけで、政宗さんバンド活動再開するっぽいよ。


終わり。